戯言かもしれない

誰かにとって戯言かもしれないけど、本人は至って真面目な日記

コギトー

 コギトーという言葉をご存じですか?
コギトーとは哲学者デカルトが出した命題で、正式にはCogito, ergo sum
《我思う、故に我在り》という意味の言葉です。
我思う、故に我在り
わたしが思うからわたしがある(超訳
普遍的で当たり前のことのようにも思えますが、わたしは思うということをじっくり考えると、なぜ思うのだろうと考えてしまいます。
思うというのは、目に見えない、気づいたらしていることです。
思うということについてなにか書こうとしても、感覚的になってしまい、これだと思える確かなことは書けません。
思うことは不確かなものです、なら自己も不確かなものではないでしょうか。
奥が深い言葉だと思います。

さて、今回哲学者の言葉を出したのは、自分とは何を思い考えて自分になったのだろうかということについて書きたいからです。

要は自分を省みる内省です。

わたしって普段なにを思ってるのだろう。
そう自分に問いかけてみると、一分前の自分のことすら曖昧で確かなことは書ける気がしませんが、考えのパターンなんかは決まっている気がします。

たとえば、嫌なことを言われたとき。
具体的な言葉は、「どうしてそんなこともできないの?」にしておきましょう。
これは、実際にわたしが言われた言葉です。
なぜそう言われたからかというと、簡単な雑用ができなかったからです。
そのときの相手の表情は心底呆れた顔でした。信じられない、余計な手間を増やさないでよという心情が伝わってきます。
さて、上のことを言われたわたしは最初にショックを受けました。
簡単なことができない自分が恥ずかしくて、惨めで、そんな自分を嫌に思います。
ですが、次第に冷静になってくると、なんでそこまで言われないといけないのだろう、と相手の言い方を不当に思ったり、自分ができなかった原因や相手の気持ちを考えます。
とはいっても考えたところで答えはないので、「自分のできなかったところは直して、それ以外は気にしない」と最終的に思います。
このようなことは、つらい目や悲しい目にあったときもそうです。
最初は自分の現状を嫌に思い。
次に、原因や相手を考えます。
最終的に改善点だけを気にして、あとは深くは考えないようにします。

ここまで考えて、かなり自分らしいなって思います。
自分のことなのだから当たり前ですけど、たいていこのパターンで生きてる気がします。
ではなぜ、こういう考えのパターンができたのか。
ほかの考え方だってあるでしょうに、決まっていつも同じパターンですから。
どうしてこんなふうになったなのか考えてみましたけど、残念なことにわたしにはどうしてそんな考え方をするようになったか分かりません。

性格といえばそれまでですけど、自分とはなんだろうなって思います。
長々書きましたけど、結局のところそこに落ち着いてしまいます。
また自分のことについて考えることがあれば書こうとおもいます。
Twitter @nemure_22